何かを忘れるのは覚えておくよりも複雑なこと
不愉快な記憶やトラウマを残すような経験を頭から消し去ろうとしたことのない人などこの世にいるでしょうか?しかし脳にとっては、何かを忘れるのは覚えておくよりも複雑な作業なのです。まるで脳という魅力的な器官は記憶を残しておきたがっているようにも思えます。それは、記憶が人間の経験にとって欠かすことのできない要素だからです。
この現実が救いようもないことのように思えるのは確かですが、神経科学の世界では全てのことに終わりがあるということをご承知おきください。記憶は人それぞれをその人物たらしめている要因です。もし自由に人生のチャプターを消すことができるならば、自分が自分自身ではなくなってしまいます。なぜなら結局、人はそれぞれが光と影、成功そして過ちと悲劇で成り立っているためです。
しかし、だからと言って科学者やその他の人々がその理由を考えていないというわけではありません。なぜ脳は自由に特定の事実を消すことができないのでしょうか?そしてなぜ人々は一部の出来事は忘れ、その他の事柄についてはまるで灯台の光のように痛ましい記憶を何度も照らし続けているのでしょうか?
研究者たちは、これらの問いへの答えを解き明かすような研究を最近発表しました。
“「時間が全てを癒してくれるはずなので、今回のことも過ぎ去ってもくれるはずだ。人は忘れる生き物だ」というようなことは、自分とは関わりがない時であればいくらでも言えるでしょう − しかし自分に関わる問題については、時間は過ぎ去ってくれず、人々は忘れてくれず、何も変化しない場所に留まり続けることになってしまいます。”
忘れることが覚えておくことよりも脳にとって難しいのはなぜなのか?
テキサス大学オースティン校が、なぜ人間の脳にとっては忘れることが覚えておくことよりも難しいのかを解明するための調査を行いました。この現象が頻繁に起きることは誰もが知っているとはいえ、この心理学的現実を司る神経メカニズムが何なのかを理解するのは非常に重要です。
この研究の主導者で、テキサス大学の心理学教授であるジャロッド・ルイス・ピーコックはある重要な点を指摘しています。それは、脳は常にデータを流して経験しており、寝ている間もずっとこの作業を行なっている、という点です。人間はこれを無意識に行なっており、自分の意思でそれをコントロールすることはできません。その理由は、人間の脳は重要ではない抽象的な事実は捨て去ろうとするためです。なぜなら、脳は主に効率性を重視して動いているからです。
また、人間が何か特定なものを忘れようとすると、その試みは三つの脳領域に集中するということもMRIから観察されました。例えば、好きな相手の気を引こうとしてそれが惨めな結果を招いたとします。この経験は、前頭前皮質と腹側側頭葉、そして海馬の三つの領域で起こります。
連想や情動的負荷によって忘れることが覚えておくことよりも難しくなる
記憶には、中立的な記憶と感情の詰まった記憶があります。神経科学者たちが説明しているように、ほとんどの人間がすぐに忘れてしまうのは視覚的な記憶です。1日を通して人間は見たものの80%を忘れています。例えば車のナンバープレート、すれ違った人々の顔、他人の着ていた服の色などといった視覚情報です。
しかし、この忘却に対して強い耐久性を発揮するものがあるとすれば、それは感情の刻印が強く残るような事実です。何かを恐れたり恥ずかしく思ったりあるいは嬉しく感じたりすると、それらは記憶の中に長く残り続けます。それは、脳がその情報を意義のあるものだと見なすからです。
一方で、触れておくべき事実が一つあります。それは私たちの記憶の多くが連想によって形成されるために、非常に豊かなものであるということです。何か意味のあるものを経験すると、脳はそのイメージと匂い、音、そして過去の出来事を踏まえて感じた印象を結びつけます。これらすべてが特定の記憶をさらに持続させることとなるのです。
喜ばしい記憶も不愉快な記憶も、その人の現在の姿を構成する要素となっている
それぞれの経験、感覚、思考、習慣、そして情動が脳レベルの変化を引き起こします。そのため、結びつきが生み出され、脳はそれを再編集するか修正するのです。忘れることは覚えておくことよりも複雑になります、なぜなら過去の一部を消去するということはこれらの結びつき、つまりシナプスを消さなければならないことを意味するからです。
それぞれの経験が、それが喜ばしいものであれ不愉快なものであれ、脳に将来経験するものに対して備えさせる役割を果たしています。そして感じたことや経験した事実から作り出された全てのシナプスや脳の修正が、その人物を決定づけるような脳の解剖学的構造を組み立てているのです。全ての記憶と全ての感覚が、言うなれば人の生物学的歳月の積み重なった山を作り出しているということです。
特定の状況においてのみ、忘れることが可能になる
前述の研究では、ある興味深い部分に焦点が当てられました。意図的な忘却が、特定のケースでは可能だという点です。
この研究によると、人間は脳の穏やかな活動レベルを”生成する”ことで経験を忘れることができる可能性があるそうです。これはつまりどういうことでしょうか?
- その事実に過度な重要性(人前でミスを犯すなど)を持たせなければ、その経験を忘れやすくなるということです。
- また、その事実に対する情緒的影響を減らすのを避け、あまり長くそのことについて考えないようにすれば、その経験は記憶から消えやすくなります。
- 脳の穏やかな活動レベルが忘れるためのカギです。
そして、もし強い感情を伴うような要素があり、思考を頑なにその具体的な忘れたい事実にばかり集中させてしまうと、忘れることは100%不可能になります。
皮肉のように思えるかもしれませんが、脳のメカニズムはこのルールに従っているのです。そのため、このことを頭に入れておけば、忘れることでは何の解決にもならないという非常にシンプルな事実のみを想定することができるでしょう。
結局人間は成功と失敗で成り立っています。従って、全ての喪失やミス、あるいは不満が人間としての旅路の一部なのです。
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- Tracy H. Wang, Katerina Placek, Jarrod A. Lewis-Peacock. More is less: increased processing of unwanted memories facilitates forgetting. The Journal of Neuroscience, 2019; 2033-18 DOI: 10.1523/JNEUROSCI.2033-18.2019