精神疾患に対する社会の見方とは?

心理学が行ってきたのと同様に、社会もメンタルヘルスの概念を進歩させてきました。しかしながら、精神疾患に関する社会的視点は多くの場合偏っています。精神的に病んでいる人や臨床診療全般に対する捉え方は社会によって歪められているのです。
精神疾患に対する社会の見方とは?

最後の更新: 26 10月, 2020

この問題に関する心理学者たちの研究成果は、事あるごとに様々な方面から攻撃されてきました。そして残念ながらそれらの批判は必ずしも建設的なものではありません。 精神疾患に関する社会的見方は、広く知られている迷信や時代遅れなジョーク、内なる葛藤、様々な風潮、無知、あるいは知識が無いにも関わらずもっともらしく語られた言葉などに基づいて形成されています。こういった人々は正式な資格や学位を持たないことに加え、既存の理論モデルをコピーしたりしますし、調査に進む前に強固な方法論的基盤を確立するということをしないのです。

この問題が生み出す結果は決して見過ごせるほど小さなものではありません。それどころか実際には、精神疾患の社会的概念にも何らかの精神疾患を抱える全ての人々にも直接的に影響を及ぼしているのです。

私は精神異常に苦しんではいない。精神異常者でいる間の一分一秒をも楽しんでいるのだ”

-エドガー・アラン・ポー-

精神疾患に対する社会の歪んだ視点

さらに、心理学には見せかけの学びに関する誤った逆説が存在します。どれだけ必要だったとしても、医学を一度も勉強したことがないのに手術を行おうとする人などいませんよね。しかし心理学に関して言えば、学位も資格もないのにうつ病について本を書くような人がたくさんいるのです。彼らはメンタルヘルスの問題を乗り越えた経験についての自らの理論やノウハウを勝手に正当なものとしています。

また、自らの個人的経験から論理的に導き出しただけの理論モデルが他の全員にも完璧に当てはまるはずだと信じ込んでさえいるのです。まるで、「あなたがすべきことは______です(空欄の内容は著者により異なる)」といった具合なのです。

精神疾患 社会の見方

心理学の分野に対する別の視点

最近まで、友人からアドバイスをもらおうとする人々は正常だと考えられてきた一方で、心理士の元へ相談に行くような人は気が狂っているかのように見なされてきました。 診察や診断、治療といった事柄は、まるでお客さんがきた時に急いで絨毯を被せられて見えなくなったホコリのように隠されていたのです。精神疾患を患っていることを白状することへの恐怖は、打ち明けた相手から拒絶される恐怖や近隣住民の噂の的になってしまうことへの恐怖でもありました。

幸運なことにこの事情は変わりつつあり、心理士の存在は日に日に身近なものとなってきているようです。精神の健全性は職業面での成功を保証するだけのものではありません。心の知能レベルの高さや将来の成功のために報酬を遅らせるといった能力もこれに関連しているのです。さらに、実はメンタルヘルスにはそれ以上の意味合いもあります。これはウェルビーイングの源でもあり、つまり良い気分でいるために必要なものでもあるのです。したがって、運動をしたり健康的な食生活を送ることなどと同じく身体への投資だということになります。

このような心理学の暗黒時代に苦しんだ人々や最もこの弊害を受けた人々こそが、精神疾患を抱えていた人々です。皆さんにもっと良く理解していただけるよう、以下に一つ例を挙げてみましょう。これは本記事のオリジナルストーリーではなく、ルイーズ・ペニーの『スリー・パインズ村の不思議な事件』という小説内の会話を引用したものです。ミステリー小説がお好きな方や、登場人物たちに単なる容疑者として以上の深い役割が与えられてるような物語をお好みの読者の方にはきっとお楽しみいただけるでしょう。

第一段落からの引用

「数年前、私はモンレアルで心理士をしていた。ほとんどの人は、何らかの危機に陥った時に診療所の扉を叩いた。そういった危機の大半は、喪失というものに要約される。つまり結婚生活の喪失であるとか重要な人間関係の喪失、安全性や仕事、家、父親、あるいは母親の喪失などといった具合だ。何らかの事象が彼らを助けを求めずにいられなくさせ、心の内側を覗くようせき立てる。多くの場合、そのきっかけとなるのが変化または喪失なのだ」

「その人たちの頭は正常なのですか?」

「彼らは適応が苦手な人々とも言えるだろうね」

この架空の心理士による証言には、社会の持つ表面的な認識が大きく反映されています。なぜ表面的だと言えるのかと言うと、患者たちに助けを求めさせる共通の要因というのは実際には喪失からではなく痛みから来ているものだからです。

一つには、そのような痛みは適応に問題がある人々だけに限定されるものではありません。もう一つには、心理士への相談といったリソースを利用していること自体が、適応しようとしていることを示すサインである場合がほとんどなのです。

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精神疾患を抱えているのは患者自身が悪いのだという考え方

小説内の会話は続き、最も興味深くて危険な点に至ります。この架空の心理士兼、書籍販売人はこう語るのです。「25年間に渡って彼らの不満に耳を傾けて過ごした後、私はついに診療所を閉じたんだ。ある朝目覚めた私は、16歳のように振舞っていた45歳の男性クライアントにそれまでとは異なる何かを見た」

「彼は毎週同じ悲嘆の言葉を言うために私に会いに来るのだ、『誰かが私を傷つけました、人生は不公平です、それは私のせいではありません』とね。私は3年間の間彼に色々と提案してきたが、彼はその間何一つとして変えようとしなかった。それから、ある日彼の話を聞いていて突然私は理解できたのだ。彼が変わらなかったのはそうしたくなかったからで、そうしようとする意志もないのだ、と。私たちは同じような茶番劇をその先20年以上も続けようとしていたのだ。私の元に来るクライアントの大半が彼とそっくりなことに気が付いたのはちょうどその時だったよ」

この架空の心理士の精神疾患に関する認識は誤りであり、彼の考え方の大部分は迷信に過ぎません。患者が精神疾患からの救済や治療法を見つけられないのは健常に戻りたいという願望や意欲が欠如しているからだ、という彼の前提は単純に間違っています。患者が今置かれている状況から得られる二次利得(問題を抱えることで得られるメリット)は、治療の試みを妨害してしまうほど強力なのです。つまり、彼らの抱えている痛みは、変化を取り入れるという努力をしたがるほどの痛みではないということです。しかしそういった変化によって自らの習慣や癖、動きをもっと適応に適したものにできる可能性があります。

精神疾患に対する歪んだ社会通念

作為あるいは不作為により、現実をこの架空の心理士のような見方で見ていれば、病気が良くならないのは患者自身が悪い、と考えるようになってしまいます。そして、「本人が悪いのだから」あるいは「本人に責任があるのだから」という考え方が広まっていたせいで、本来であれば周囲から得られていたであろう関心は集まらず、社会制度が患者たちに与えるべきリソースは利用できない状態となっていたのです。

「_____したいと決意したらその人はもっと良くなるだろう」というような発言を何人もの人がしています。これこそ、この問題に関する特に歪んだ考え方なのかもしれません。


このテキストは情報提供のみを目的としており、専門家との相談を代替するものではありません。疑問がある場合は、専門家に相談してください。