説教は暴力の一種

2019年6月2日
説教は善悪をはっきりさせる価値観を中心とした考えを押しつけることが目的の、心理的な暴力の一種です。実際に倫理原則を教えるというよりは、相手に罪悪感を抱かせることが基盤となっています。

説教は、気づかれにくいタイプの精神的な暴力です。価値観や主義を他人に押し付けるのは勇ましいことだと見なされることが多いので、攻撃的でバカにするような態度は尊敬され、弁護されることもあるのです。

説教という手段をとる人は、「相手のためを思って」と言って自己を正当化します。彼らは他人にある種の価値観を受け入れてもらいたがり、そのために問題のある方法をとるのです。こういった攻撃を受ける側の人がそれに従わないと、彼らは相手を批判し、見下し、批判し、いやがらせをするのです。

一般的に説教のサイクルはパターナリズムから始まります。誰も聞いていないのにアドバイスし、彼らの判断が尊敬され価値があるかのように人を批評します。このことについて最も不愉快なのは、彼らは良い行いのお手本であるというわけではないということです。しかし、彼らは人よりも優れていると信じ込ませるような立場にある傾向があります。

「道徳を一張羅として着る者は、裸でいる方がマシだ。」

― ハリール・ジブラーン ―

説教と軽視

説教の最大の特徴は他人に行動指針を押し付けることです。この行為のキーワードは、ずばり「押し付け」です。彼らは「価値ある」考えを人に採用してもらいたがります。それも、「人が従うべき考えだから」というシンプルながら問題のある理由のためにです。

説教をする人たちは、父親や母親だから、上司だから、心理学者だから、牧師だから、または他の人より話が上手いからという理由だけで、自分が倫理的に人より優れていると考えています。立場上、自分は他の人の振る舞いに影響を与えても良いと信じやすくなることがあるのです。しかし、これは決して事実ではありません。

本物の道徳観には熟考と説得力の両方が伴うものです。恐怖やプレッシャー、威圧などのために実践されるものではありません。完全にそして建設的に社会の一員になるために、子どもたちが成長途中で親の指導を必要とするのは事実です。しかし、教育と説教には大きな違いがあります。前者は気づきをもたらすのが目的であるのに対し、後者はコントロールを目的とするものなのです。

説教という暴力

暴力と説教

説教は心理的な暴力につながります。そもそも、説教は相手の方が倫理的に劣っているということを示すものです。説教の大部分は偽りです。人間が他の誰かよりも倫理的に優れているなんて言える人がいるでしょうか?ある人間が他の人間よりも倫理的に筋が通っているなどと確実に言えるでしょうか?彼らの言動を左右する動機や意図は十分に明確でしょうか?

宗教指導者や政治家、親、さらには教師でさえも他人に勧めることを自分が実践していないという場合が多々あります。説教したことを自分で実践していたとしても、道徳的に悟っている人ならば他人の個性や誠実さを尊重するものではないでしょうか。

一方で、このような言動は単に言葉に関係するわけではりません。説教には是認や非難のジェスチャーや、善か悪かのジャッジが伴うものです。そしてこれは他人を操作し、傷つける行為に他なりません。

説教 暴力 コントロール

その他の特徴

説教には、相手をコントロールしたり軽視したりするなどの言動が伴う傾向があります。例えば、説教する人はたいてい自分には相手を問いただしたり問い詰めたりする権利があると思っています。「どこに行くの?」「何をするの?」「なぜそれをするの?」「私から何を隠しているの?」などの質問をする傾向があります。

また、彼らは要求するようなトーンで話すかもしれません。自分の優越性を築き、再確認するためにボスになりたがるのです。また、彼らはたいてい他人の行動を解釈する権利があると思っています。そのため、「君はただ単に何かを得たかったからそれをやったんだ」などと言いがちなのです。

説教をする人たちの行為の中でも最悪なのは、自分の思い通りに考えたり振舞ったりしない人を笑い物にしたり、けなしたり、叱りつけたりすることです。彼らの目的は相手に恥や罪悪感を感じさせることで、それも相手の倫理観を心配しているからというわけではなく、自分の考えに従わせたいからなのです。