行方不明者を思う痛みと悲しみ

06 7月, 2020
行方不明者を思う悲しみは、説明したり理解することが非常に困難な心理状態になってしまうほどの痛みを伴います。言葉では描写できないほどの苦痛に襲われることとなるのです。

行方不明者を思う悲しみは空虚感とともに襲ってくるため、乗り越えるのが非常に困難です。心の奥底にまで至る悲しみなので、人生の目標や生きる意味を考え直すことになってしまうほどです。大切な人が亡くなった時にも、人は深い悲しみを感じますよね。しかしこの痛みがかなり強烈で、来ては去ってを繰り返すような類のものである場合はどうでしょう?行方不明者の身に何が起きたのかがわからない状態による胸の痛みは、残された者たちに多大な影響を及ぼします。この記事を読み進めて、さらに詳しくみていきましょう。

まず、これほどの深い悲しみというのは何かあるいは誰かを喪失した時に起こる心理現象です。これは心理学の領域を超えた問題であり、身体的、人類学的、経済的、社会的、そして精神的要素を含んでいます。喪失とは、「人やもの、あるいは心的表象が剥奪されたり失われたりした時に起こる、影響力を伴う認知面および行動面の反応」です(ティソン、2013年)。

行方不明者 痛み 悲しみ

行方不明者を思う悲しみ

人間は、突然そして予期せず愛する誰かと引き離された時、深い悲しみを感じます。消息が絶たれてしまうのには様々な理由があるでしょう。しかし、どんなものであれその衝撃の大きさは同じです。なぜなら、その人物の行方に関する情報が無い状態やその静けさが、近しかった人々の心に絶えずつきまとうからです。

誰かが姿を消すと、残された家族は手がかりを探すためにその人物の足跡を辿ろうとします。しかしそれが違法な場合もありますし、真実を見つける方法が存在しないこともあるでしょう。また、真相に近づきすぎるとこちらにまで危険が及ぶ恐れもあり、少なくとも国家からの保護は見込めなくなってしまうこともあります。

ある人物と連絡がつかなくなると、痕跡がなくなってしまうので生きているのか死んでしまったのかを知ることが難しくなります。そしてこのような状況のせいで、悼む気持ちを持つことができません。行方不明者を弔うことに関して頻繁に尋ねられる質問が、「何があったかすらわからないのに、どうやって愛する人を失ったという事実を受け入れられるというのだろう?」というものです。

痛みが一時的に治まることについて

行方不明者を思って悲しんでいると、一時的に心の痛みが治まることがあります。それは、もしかしたらその相手を見つけられるかもしれないという希望が度々生まれるためです。これはまるで、嵐の真っ最中に一筋の光が差し込み、あの人は戻ってくるはずだから諦めるな、と言われているような感覚です。

つまりこの痛みは断続的なものであり、行方不明者から残された人々を遠ざけたり近づけたりする不安のせいで、一時的に停止され得るものだということです。それでも、ただ一時的に停止しているだけなので痛みの存在自体は消えておらず、苦難は続きます。また、痛みに浮き沈みがあると、かなりのストレスや苦痛につながり、それは消し去ることができません。

行方不明者の身を案じていると、先の見えない不安感が優勢になります。特にそれが国家権力などによる強制失踪だった場合はなおさらでしょう。適切な言葉を見つけられないほどの、形容し難いほどの痛みに襲われることにつながります。そしてその喪失感は死別などの他の種類の別れによるものとは全く異なるため、対処する方法すらわかりません。

行方不明者を思う悲しみ − この状況との向き合い方

戻ってくるかもしれないのに、その人の死を受け入れることなどどうすればできるのでしょうか?どんな言葉ならそれほど大きな胸の痛みを説明できるのでしょう?これほどの空虚感を抱えている状態で前に進むにはどうすればいいのでしょうか?

人間は、生涯を通じて様々な種類の離別の悲しみを経験します。その中の一部は、生きていく上で避けることのできない変化によるものです。しかし、突然想像もしていなかったような別れが訪れる場合があります。実のところ、このような状況と向き合うのは非常に難易度の高い課題です。しかし行方不明の相手を思う悲しみに関しては、いくつか対処法が存在します。

このテーマについて研究を行なったホルヘ・L・ティソンは、深い悲しみとは「その対象者にとっての内部的および外部的な現実を受け入れようとする心理的プロセス」である、と考えています。

その理論から考えると、悲しみの各段階で実践できることに関しては対処法が存在します。しかし行方不明の相手を思う悲しみについては他の類の悲しみとは大きく異なるため、通常のプロセスに従うことが難しい場合があるのです。

遺体があるのであれば、愛する人の喪失を受け入れ始めることができるでしょう。しかし行方不明者の場合、遺族に残される遺体はありません。そこにはただ見通しのつかない不安が存在するだけです。そのため、真偽が不明であるにも関わらず、死を前提として考えることに対して罪悪感を感じてしまう可能性があります。また、死を受け入れることで自分たちがその人物を殺してしまうことになるような気がしてしまうのです。

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彼らには何が起こったのか?

行方不明になった人たちの家族は、必死で彼らがまだ生きているかのように考えようとします。少なくとも、2014年に『Revista Internacional de Buena Consciencia』誌に発表された記事の中でラミレス・ゲレロ・イ・サルバドールが主張している内容に基づくとこれは正しいようです。このせいで遺族は悲しみを乗り越えることができなくなってしまいます。

では、この深い悲しみにはどう向き合っていけばいいのでしょうか?それほどの苦悩を生み出す精神状態について言葉で説明するのは困難です。しかし、別の伝達方法を試してみることならできるはずです。例えば、芸術はどうでしょうか。芸術作品を通して、言葉とは異なる形で情報を伝えることができます。そして無意識な部分も作品に反映されるでしょう。また、この方法ならば1日1日をあるがままに受け入れて過ごすことができ、起こっている現実を把握することができるかもしれません。シンボルが見つかれば、それを言葉に変えることもできるでしょう。

さらに、レジリエンスを鍛えるという方法もあります。これは、自分を苦しめているものを乗り越えるための力です。この力をつけるためには、自分自身の人生の目的を見つける必要があります。消息のわからない人物を愛したり恋しく思うのをやめる必要はありません。むしろ、「今、ここ」の状態を吟味し、歩み続けることが大切です。そうすれば痛みがいくらか軽くなるかもしれません。また、心理面に関してはいつでも助けを求めて構いません。

行方不明者を思う悲しみは、単純な問題ではありません。言葉では説明できないほどの痛みなのです。しかし、しっかりと気持ちを分析していけばその輪郭は見えてくるでしょう。なぜなら、この分析というプロセスは、喪失を受け入れることで成り立つものだからです。決して記憶やこれまでの経験を放棄するということではありません。最後に、芸術作品を作ることが残された人々の人生や心の痛みに意味を与えてくれるモビライザーである一方、レジリエンスは悲しみに向き合うための武器のような存在であることを覚えておきましょう。

Ramírez Guerrero, E.S. (2014). El trabajo de Duelo Frente a Personas Desaparecidas. Análisis de Caso. International Journal of Good Conscience.

Tizón, J. L. (2004). Pérdida, pena, duelo. Vivencias, investigación y asistencia, (12). Madird: Grupo Planeta.