愛することと必要とすることとの違いとは?
生活の中である特定の状況に直面すると、自分には愛することと必要とすることとの区別の仕方が本当にわかっているのか、自問せねばならない場合があります。これは愛なのかニーズなのか?あなたは愛するとは何か、そして必要とすることと何が違うのかを本当に理解していますか?
“愛”について話すことは、それがどんな表現であれ非常に複雑です。なぜなら、この言葉は現実世界の非常に多様な場所で過度に使われているからです。
これが単なる言葉以上の意味を持つことは明らかですので、考え得る定義を探るよりは、愛とは呼べないものを指摘していく方が良いかもしれません。
愛とは呼べないものとは…
- “愛”という言葉(定義づけてしまうと、もう愛ではなくなります)
- 所有すること(自分が持っているものは自分のことも所有しているのであり、閉じ込めたり捕らえておくことはできません)
- 思考(愛している、と考えるのではなく愛という行為を実行しましょう)
- 私利私欲(秘められた下心がある場合は、愛とは呼べません。愛は商品ではなく、シンプルに愛でしかないのです)
- 必要性(愛は自我のギャップを埋めるために存在しているわけではありません)
- 一時的なもの(愛は心の中にあるのではなく、愛の中に自分がいて、常に今ここにあるものです)
カップルとは呼べないものとは…
- カップルでいることより自由でいることを重視する。
- 互いに約束し合うが、二人共が舵を取りたがる。
- どんなことにも合意するが、二人共が関係性の中での個人の自由を主張する。
さらに:
- 愛の表明は必要としないが、コミュニケーションを求める。
- 身につけた”マスク”と互いに抱いているイメージとを比べられない。
- 瞬く間に消え去ってしまうのであれば単なる神経科学的反応であり、”恋に落ちた”とは言えない。
カップルをとってみても、そしてこの世に溢れる多くの愛情表現をとってみても、恋に落ちることはとても複雑なものなのです。なぜなら、恋をしている一時的な状態には、神経伝達物質の変化(ドーパミンとノルアドレナリンが増大し、セロトニンが減少します)によるドラッグ中毒と非常によく似た効果が含まれているためです。だからこそ、明確で合理的な決断を下すためには、この状態が経過するのを待つのが良いとされているのです。
心理学者のジョン・ブラッドショーによれば、長期的な関係性を築くためには恋に落ちた状態あるいは移行期間を乗り越え、”仲間意識”が生まれた状態へ到達する必要があるということです。
カップルたちがこれに関する事柄をどう記憶しているのか、またどう考えが変わっていったのかについてのよく使われている研究があります。ホルムバーグとホームズ(1994年)は、仲がとても良く、互いに恋をしていると主張する夫婦400組にインタビューを行いました。
そしてその2年後、彼らは再度インタビューを行いました。離婚してしまった、あるいは関係がうまくいっていないカップルたちは、二人の関係は初めから悪いものだったと述べました。ここから分かるのは、人がいかにたやすく現実にそぐわない記憶を構築することができるか、そして決断を正当化できるかということです。
二人の関係はどうあるべきか
- どんな形でも自分自身の気持ちを表明できるようにしておくこと。
- 全体的な独立性(これがなければ、交際関係とは言えません)。
- ルールに縛られないこと、なぜならそれが愛であるならばルールは存在しないはずだからです。
- イマジネーションや驚きがあり、無条件にサポートし合えること。
- 自分自身のことも相手のことも尊敬できること。
- 人生という道中にある”くぼみ”を乗り越え、進んでいく中で互いの”車輪”を確認し合えること。
- 献身ではなく、解放。
年月とともに自由が失われ、意見やプライド、エゴなどは増しやすくなります。これに加えて我々にはテクノロジーという問題もあり、人間同士の直接のやりとりよりも表面的なコミュニケーションが好まれる時代になりつつあります。
贈り物をしなければという強迫観念や、認められたいという願望が増し、愛も退廃的になっていきます。それに加えて、より多くの人々がソーシャルメディアやモバイルネットワークでの身体的な自己顕示の虜になってきています。その結果、この問題に対して治療やセラピーを必要等する人々が増えているのです。
愛の障壁としての制度化
制度化
愛が、心の中にある寺院や宗派、宗教、ファッション、儀式、哲学などを妨げるものであってはなりません。あなたは本当に自由をラベル貼りしたり分類することができると思いますか?だからこそ、愛には聖域というものが存在しないのです。それは、探していなかった場所で愛を見つけることができたり、障害を取り除くことで愛が芽生えることがあるためです。
光を取り入れるためにカーテンを開けねばならないのと同じように、自由と愛を探し出すために今暗闇の中で生きているのだということに気づく必要があります。
結果
サヨナキドリが歌うのは、人々を喜ばせるためではありません。だからこそその飾り気のなさがメロディに美しさを与えるのです。時には、愛とは努力の賜物であると考えてしまうことがあるでしょう。しかし、ここで話しておきたいのは、愛のためにつぎ込むべき労力についてというよりはむしろ、障害物を取り除くことについてです。
また、趣味や態度についても同じことが言えます。私たちは自分のしていることではなく、その結果を愛し、人々に認められることを目指すよう言われてきました。しかしそうではなく、周囲の環境の調和から生み出され、明確な到達すべきゴールの必要ない自然な情熱の美しさを追求する方法こそ学ぶべきものなのです。
条件付け
心の内側に持っている愛する能力を閉じ込め、隠してしまうような条件は全て破り、疑問に思うべきでしょう。あなたは、他の人から期待されていることのみを行なっているだけですか、それとも自分自身が本当にやりたいと願うことを実行できていますか?
人間よりも国旗やシンボル、あるいはイデオロギーを愛し、自分と同一視させるのに必死な人々もいます。彼らは、自分は特別な存在だと感じるためにこういったものに自分を重ね合わせる必要性を感じているのです。
しかし、愛することを恐れると、何かが欠けているような感覚や空虚感が湧いてきます。人々がこういった事柄を選ぶのは、安心感を覚えていたこと全てが真の愛によって消し去られてしまうからなのです。
愛着
愛とニーズとの混同は非常によく見られる現象です。多くのティーンエイジャーは、友人たちがすでに彼氏あるいは彼女を作っているのを見て自分たちも交際を始めます。彼らは、寂しさや恐怖心、あるいは逃避などに対処しなくてはならないような事態よりは、パートナーを持つ方がマシだと考えるのです。これにより、愛着がいかに私たちを精神的に他者に依存させてしまうかがわかります。
愛とは自由なものなのですが、愛着は愛の障害となってしまい、これに対する対処法を知っておかねばならなくなります。自由を共有することで私たちは強くなれますが、パートナーに依存してしまうと真の愛からは遠ざかってしまうのです。
エゴが愛を消失させる
短く言うと、エゴが注目をひっきりなしに求めるニーズとともに背後に消え去って初めて、愛は姿を現すということです。
人生では、たくさんの列車があなたの前を通ることになります。しかし、全ての列車があなたにとって有益であるとは限りません。同乗する”乗客たち”があなたの考え方を咎め始めることも稀ではありません。自分にとってベストな列車を選ばなくてはなりません。まずは今乗っている列車から降りて、人生の方向性を変えてみましょう。
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- Willi J. (2002) La pareja humana, relación y conflicto. Ediciones Morata.
- Riso, W. (2008) Amar o depender. Barcelona. Editorial Planeta.
- Fromm, E (1997) El arte de amar. Barcelona. Editorial Paidos Ibérica.