願望が満足の行く結果に繋がるとは限らない

私たちは、必ずしもいつも望んだものを手に入れられるとは限りません。欲することと実際にそれを獲得することとの間には到底埋めることのできない大きな隔たりが存在するのです。しかし、私たちを苦しめることの多い願望それ自体は、同時に私たちを生かし続けるものでもあります。
願望が満足の行く結果に繋がるとは限らない

最後の更新: 13 12月, 2020

人は必ずしもいつも望んだものを手に入れられるわけではありません。願望を抱くこと満足の行く結果を手にすることの間には距離があり、時にはその長さが果てしない場合があります。また、良くも悪くも、人の頭脳が現実世界をコントロールすることはできません。つまり、私たちの力には限度があり、期待は壊れやすいということです。お分かりのように、ミスは誰もが犯すものですが成長の助けにもなります。そしてミスのおかげでその先に待つ危険な道へ足を踏み出さなくても済んだ、という幸運なケースもあり得るのです。ご覧の通り、何かを欲することとそれを手にするためのパワーを持っていることとはイコールではありません。

ラジオで、あるラブソングを他のハートブレイクソングと比べて褒め称えている人がいました。情熱的なハートもあれば傷ついたハートもあります。私たちは自分がなりたい自分になれてもいません。なぜなら、そのための試みはそれほど長続きしないからです。そして終わってしまう恋愛関係はたくさんあるとはいえ、愛自体が途絶えることは決してありません。愛は時間を超えて生き延びますが、だからといって時とともにより良い愛に変わっていくとも限らないのです。

願望が満足の行く結果に繋がるとは限らない

願望を抱くことと満足できる結果を手にすること

自分の人生を思い通りにできないのは病的なことではありません。病的だと言えるのは強迫観念や適応に見せかけられた特定のストラテジーなどです。反復行為は私たちに安心感を与えます。強迫的な欲求は、不安感が増幅する原因です。

初心者向けの診断マニュアルは人々の過剰な病理化にしか繋がりません。人の不確定な未来が星占いで簡単に説明されてしまうように、程度の差はあれど誰もがそのマニュアルの中の何らかの枠組みに当てはまるのです。壊れた時計であっても一日に二回は正しい時刻を指し示しますよね。

傷心状態と上機嫌な状態との間にある唯一の違いは、希望の有無です。希望を持たない人はその場に留まり続けてしまう一方で、希望を持ち続けられる人は前に進むことができます。だからこそ、私たちは幽霊に変わってしまうその時まで希望を手放さずにいるのです。そうでないと人はかなり弱くなってしまうでしょう。そうなると、同じように希望を持たない人々としか親密な関係を築くことができません。

私たち全員が、誰かに頼ったり何かを必要としながら生きているのです。そして正しいことを言ってくれた人あるいは行ってくれた相手になら自らの全てを分け与えることができます。また、脅威を感じている時やたった一人で自分の利益を守らなくてはならないと思っている時には誰もが利己的にもなり得るでしょう。

人は、自分を他とは違う存在にさせている要素を探し出そうとしながら犠牲者あるいは処刑者などから自分自身を切り離します。恵まれない幼少期を過ごした人がたくさんいるけれど、自分の場合は子どもの頃幸せだった、という具合です。しかしながら社会心理学によると、特定の条件が揃えばどんな人でも非難に値する行為に走る可能性があります。お分かりのように、恐怖心はとても強力な感情であるため、そのせいで人は自らの本質を忘れてしまいかねないのです。自分ではその存在を認めたくないような試練も存在します。したがって、必ずしも「為せば成る」という言葉が正しいとは言えません。

願望とコントロール

思春期の間は周りに馴染むことが重要になり、十代の子どもたちはグループへ属することに高い価値を見出します。だからこそ仲間たちから認めてもらいたがるのです。しかし、そのようなモチベーションは一生涯を通じて存在し続けるものだということを大人は忘れています。

さらに、この種のモチベーションというのは正反対の方向にも働く場合があります。つまり、その内容の如何に関わらず、自分が属していないグループが支持しているものだからという理由だけで、何らかの概念を批判してしまう可能性が誰にでもあるのです。事実、この現象は政治の世界において非常によく見られます。

その隔たりを埋めて分析を行うのは簡単なことではありません。なぜなら罪悪感や恐怖心、開かれたままの傷口、そして口に出せず胸にしまっている秘め事など全てが重荷となっているからです。望み通りに物事が進まない時には、パラレルワールドについて考えたり、「もしこうだったら」という理想に思いを巡らせることで安堵感が得られます。しかしそれは、自分がした何らかの行いについて、すでに結果がわかっているのに自分自身を批判してしまうような罠なのです。苦痛に苛まれたいと願っている人など誰もいません。しかし、誰かを傷つけてしまった、と考えている時ほとんどの人が苦しみの中にいるのです。

忘却が、関心の欠如を示す絶対的な証拠というわけではありません。記憶とは移ろいやすいものであり、時には言葉が喉元まで出かかっているのに思い出せないという場合もあるでしょう。人の注意力はすぐに使い果たされてしまいます。サルがバスケットボールをする様子を最初は楽しく見ていたとしても、その場にいた人から得点を数えるよう命じられるともうプレイ自体を楽しむことはできなくなるのです。

本当に重要な価値基準

正直さというのは、最も恐ろしい価値基準かもしれません。それは、誰もが数えきれないほど裏切り行為をした、あるいはされた経験があるからです。そして全員がそれほど他人を信じやすかったことで自分自身を愚か者だと見なしています。

自分の手でコントロールできる範囲を超えたところにも人生を左右する様々な要因が存在し、それらが人の運命と大きく関係しています。したがって、最終結果には決定論が存在しないため、強く欲したからといって必ずしも確実に成功できるとは限らないのです。

欲することは切望することや願望を意味します。しかしこの等式のその他の部分も同じように重要なのです。どんなリソースに頼ることができて、どんな利益を得ることができるのだろう?別の選択肢の存在に気づいたまさにその瞬間、現実的な考え方が悲観的な考え方に取って代わるのです。

願望が満足の行く結果に繋がるとは限らない

願うことと満たされること − 必ずしも常に欲しいものを手に入れられるとは限らないが、必要なものなら獲得できる

強い願望を抱いたからといって成功が約束されるわけではありません。しかし、だからといって自分自身でピグマリオン効果を起こせないというわけではないですし、また、時には何かを欲することで自己充足的予言が現実化される可能性もあります。それによって回復できると信じていれば、指示された治療法にもっと忠実に従うことができるのと同じことです。

この意味では、不可能にも可能性があります。事実、不可能性によって意思決定における知性の価値が高まり、そして利己主義に直面した際にも不信感を克服し、正直さや寛大さに期待を賭けられるような人間らしい側面においても知性が貴重なものとなるのです。これこそが、恐怖心が湧いてきた時に出すべき簡単な答えです。願望と満足感は必ずしもパワーにつながるわけではありませんが、自分が生きていることのサインではあります。願望とは全てを失った時にかろうじて人を生かすものであり、希望とは生涯残り続ける唯一のものなのです。


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