人を操るテクニック:愛されるのと恐れられるのはどっちがいい?

· 2018年9月7日

他の人にあなたがしてほしいことをさせるためには、様々な方法があります。言い換えると、人を操るということです。人に影響を与えることは、思うより簡単かもしれません。目線やジェスチャー、二言三言でも他人を指令通りに動かすことができるかもしれません。しかし、人を操る際には、その人を怖がらせることによって、あるいは何か代わりに頼みをきくことでも行うことができます。人を操るにはたくさんの方法があるのです。

一般的に、人を操る方法として二つのテクニックが群を抜いています。一つがに焦点を当てているのに対し、もう一つは迎合性が中心です。二つは互いにとても異なり、それぞれにメリットとデメリットがあります。

どちらを使うかは、それを使う人のスキル、影響を与えたい人、そして環境によります。社会的状況もまた決定的要素になります。

罰を通した操作

ときに、操作の目的は押し付けになります。つまりあなたが他の人より上にいて、他の人はあなたに従わなければならないということを見せるのです。この場合、他人を操るプロセスは二つあります。それではこの二つを見てみましょう。

他人を操る方法

服従

自分の意思に反して何かに服従するとき、命令に従わないと望まざる結果を招いてしまうことが、服従の動機となります。服従することは、他の人の意志と権威に従うことなのです。

しかし、私たちは人に服従するだけでなく、考え方や教義、イデオロギーにも服従します。服従しないことが意味するのは、罰を受けたり褒美の没収と言った対価を払わなければならないということです。これはよくある子育て法でもあります。

言いなりになること

他人の言いなりになるということは、言われたことをなんでもやるということです。この場合、言いなりになることは完全に依存するという点で異なります。人の言いなりになるとき、命令を批判することはなく、それを自然のこととして受け止めます。

従わないということは選択肢にありません。これらの二つのプロセスは、明らかに恐怖を通して機能します。結果を恐れる人は操られ支配されます。このため、罰を通した操作は侵略的なテクニックだと考えられています。

恐怖で人を支配する

迎合を通した操作

ニッコロ・マキャヴェッリが問うたように、愛されるのと恐れられるのとでは、どちらが良いのでしょうか。罰のメカニズムが自分のことを人に恐れさせる一方で、同じ結果を得ることになるのに、操る側の人間が愛されることになるテクニックがあるのです。それが以下で説明するような、迎合に基づいたプロセスです。

説得

説得は、情報、感情、理由を表す言葉を使います。言葉を使って、他の人の態度や気持ち、行動を替えようとするのです。説得を通じて人を操るためには、その人を知らなければなりません。その人の信条、興味、そしてニーズを知るのです。この知識に基づいて、説得には論理と修辞法、感情、ボディーランゲージ、そしてその他にもたくさんのテクニックを要します。

誘惑

誘惑は、人を狂わせるアートと考えられます。しかしより正しい定義は、その人を恋に落とさせたり、願いを聞いてあげることで気持ちに影響を与え、人を説得するプロセスということになるでしょう。

最も良く知られた誘惑のメカニズムの一つは、いわゆる「遠回しゲーム」です。直接見せることなく、惹かれていることをほのめかすのです。興味と魅力がその人の中で大きくなり、最初の一歩を踏み出してしまうのです。誘惑して人を操る

不本意な同意

不本意な同意は、組織的な同意や容認、許可のことを指します。心理学では、不本意な同意とは考えなしに確固たる答えをしてしまう人のことを言います。迎合という観点からは、不本意な同意をする人はどんな要求にも断言的に応答します。

交換

交換とは、何かを受け取るために妥協することです。他の人に何かしてもらいたかったら、その人のために何かしてあげることから始めるのがいいでしょう。チャルディーニの説得テクニックでは、相互利益は、バランスを保つために社会的関係の中に存在しなければならないものを指します。

個人的な告白をすることで、他人にも個人的なことを話してもらうことにつながります。贈り物をあげると、お返しになにかをもらえる可能性が高まります。ですので、要求や予告なくなにかを与えることは、受け取る人にもお返しに贈り物をするよう促すことになりえるのです。

これらの迎合に基づいた人を操るテクニックは、侵略性が低いものになります。これを使えば、自覚させることなく他人を操ることができます。恐怖は従いたいと思わせる要因にはなりません。

しかし、こういったテクニックは長期間維持することが困難です。罰も迎合も有用になり得ますが、それぞれのメリットとデメリットがあります。目的が何なのかに全てがかかっているのです。