犬が教えてくれること
間違いなく犬はかわいらしい生き物です。犬を特別愛し、忘れがたい瞬間を彼らと共有してきた人は、彼らのふるまい方に隠された知恵があることに気づいているかもしれません。
人は犬と同じく動物です。人間はもっと複雑な論理を理解し、より正確な言語をあやつります。しかし、だからといってこの星の住人でないというわけではありません。
問題は、特に最近の数十年において、人間が自分たちを世界の中心と考えていることです。種族としての重要性の誤った見方は、不満や混乱などの多くの問題の原因になっています。
人間、犬、猫でいることはどれも大差ありません。私たちはみな同じ惑星に生息しています。わたしたちはみな生きるという特権を与えられ、目の前にある状況にできる限り適応しようとしています。 適応には、わたしたちの行動学的側面が関わります。さらに、感情的な側面や生理的な側面も絡んできます。
犬から学ぶことは私たちにとってメリットがあります。頭がおかしいと思うかもしれませんが、わたしたちはくるっているわけではありません。有名な哲学者のディオゲネスはすでにこのことに気づいていました。彼は「犬」の異名を持っています。当然のことと思われていた人間の存在の重要性とエゴを捨てることを彼は学びました。もっと自然に、恥じを捨て、自由になることを学びました。何より、彼は友人と敵の見分けを付けられるようになったのです。
ディオゲネスと犬
ディオゲネスは犬の徳を称賛し、彼らを真似、同じようにふるまおうとしました。そのようにふるまうために、自分が本当に犬であるかのように自分の問題に向き合いました。外的にも内的にも自分の価値をよりよく管理できるようになりました。貧しい状況で生活、正確に言えば箱の中で生活をしました。そして、彼は常に家族の犬に囲まれていました。用を足すのも街中でしました。
様々な逸話によれば、彼は孤独な生活、裸、バレルの家など自分の理想を現実にしました。そして、常に人間社会によって作り出させた俗世的なものを否定しました。生き延びるためにそのようなものが必要ないと、彼はわかっていました。
ディオゲネスは、自由の急進的な考え方を実行しました。犬のように、彼は恥じることがありませんでした。すでに確立された社会的な規範や従来の生き方に、激しく反対し、時には攻撃しました。
ディオゲネスを「犬」と呼んでいた人たちは、彼を馬鹿にしていました。犬のように、ディオゲネス本人は気にも留めていませんでした。むしろ、新しい名前を誇りに思い、エンブレムとして使っていたくらいでした。この呼び方が、自分をよく表していると考えていました。
ディオゲネスは、「必要」といううそのラベル付けをされた物質的なものから自分を遠ざけようとしていました。私たちはものの奴隷です。かれは犬のように慎ましく生活し、人間はもっと謙虚になることができると気づきました。
もっと犬のように生きてみよう
ディオゲネスの話は少し度が過ぎているかもしれません。みなさんはこの通りに生きる必要はありません。こんな風に生活することを期待して、記事にしているわけではありません。しかし、この話の意図を理解してほしいと思っています。そして、その考え方を受け入れ適用するか決めるのはあなた次第です。
思い返してみると、私たちの感情的な問題の多くは自己中心性から発生していることに気づくでしょう。例えば、この自己中心性が生み出す問題は、課題を割り振るのに苦労しているひとにありがちです。また、自分はユニークだが必要不可欠な存在ではないということを忘れがちな人によく見られます。
私たちは大きなエゴを抱えていて、それこそが苦しみを生み出している
犬のメンタリティーを受け入れる
自分の犬のように、お隣の犬のように、道端の犬のように考えられたら、犬が本当に必要なことにしか興味を示していないことがわかります。天気から自分を守ること、動き回ること、毎日のえさや水を探すこと、子孫を残すこと、ゲームをすること、注意を引くことしか犬は興味がありません。町で一番いい犬である必要もないし、すべてを完璧に行う必要もありません。
私たちはオプションであるはずのものを、さも必要であるかのように扱います。いい仕事、いいお給料、プール付きの家、魅力的なパートナー、旅行、仕事の成功、名誉、称賛を求めます。そのため、これらのニーズが満たされないと、自尊心が傷つきます。他の人より劣っているように感じてしまいます。
それを絶対的で欠くことのできないニーズに変えたいという誘惑に屈しない限り、それらを追い求めること自体は間違ってはいません。
「犬」スタイルの生活を送りたいなら、はじめの一歩は自分が重要だと思わないことです。他の人が自分を認めてくれないからといって鬱になる必要はありません。不公平に直面した時イライラしたり、目立ったり称賛を受けようとして、他の人と競おうとするのはやめましょう。
犬のように自由にオープンになる
2つ目のステップは、遠慮し過ぎずにいることです。もちろん、道端で用を足すようにと言っているわけではありません。でも、もっとオープンになるべきです。そのままの自分をさらけ出してください。ちょっとした欠陥もさらけ出してしまうかもしれません。でも、自分のポテンシャルをフルに出せないよりはいいですよね。
細すぎるから、太っているから、色白だから、色黒だから、など何らかの理由で特定の方法に着飾ることを恥ずかしく思うなら、自分の好きなような服を着ればいいです。社会がそうしろと刷り込んだ複雑な背景など気にする必要はありません。大きいから、小さいから、特定の毛色だからといって、犬は恥ずかしがったりしません。
自分の価値観も変える必要があります。自分の肉体的な魅力、他人の肉体的な魅力、物質的なもの、他の人への優位性は、大事ではありません。
他の犬がどう見えるかを気にして、自分の体形や「流行り」に乗っているかを心配をしている犬を想像できますか?ベッドが大きくて高いからといって他の犬をうらやましく思う犬がいると思いますか?もちろん、犬はそんなこと一切気にしません。
最後に、何でも欲しがるのはやめましょう。ディオゲネスが示したように、幸せになるためにたくさんのことは必要ありません。この記事を読んでいるのであれば、少なくとも携帯電話やパソコンを持っているかと思います。つまり、基本的な必要性はカバーされていると言えます。でも、携帯電話やパソコンは必要不可欠ではありません。贅沢品です。こう考えると、不幸せに感じることなんかありませんよね?
さぁ、犬のように生きてみませんか?