さようなら、コービー・ブライアント

コービー・ブライアントはロサンゼルス・レイカーズの金と紫のユニフォームが非常に似合う選手でした。多くの人に夢をみせ、バスケットを楽しむことを教え、なぜ「ブラックマンバ」がNBAの中のレジェンドになったかを示した人でした。そんな彼ですが、2020年1月26日に亡くなってしまいました。
さようなら、コービー・ブライアント
Valeria Sabater

によって書かれ、確認されています。 心理学者 Valeria Sabater.

最後の更新: 21 12月, 2022

童話の中だけでなく、現実にも巨人は存在します。そして、バスケットコートで活躍する巨人がいます。コービー・ブライアントは、NBAで最も有名なスターの一人でした。子どもにも大人にも夢を見せてくれる人物でした。そして、それはこれからも変わりません。コービーは多くの人にそのプレイを見たいと思わせた巨人です

コービーの死に衝撃を受けた人がたくさんいることは想像できるでしょう。コービー・ブライアント41歳、娘ジアナ13歳、その他7人を乗せたヘリコプターがカリフォルニア州ロサンゼルスで墜落し、全員が亡くなりました。致命的なこの事故は、人々に最も愛されたバスケット選手の一人であるブラックマンバ(コービーの愛称)が活躍したスポーツ界にも衝撃を与えました。

そして、コービーのファン、政治家、芸能人、匿名の人々も含め、彼を尊敬する多くの人が彼への追悼の意を示しました。それぞれが、それぞれの方法で心を表しました。また、多くの人が自発的に地元のバスケットコートに集まり、少年の心を忘れず、バスケットに情熱を注いだコービーに思いをはせました。彼が望んだのはバスケットボールとバスケットゴールだけで、コービーはこれを使って夢をひとつずつ叶えていきました。

コービー・ブライアント

 

勝利の心をもつ男コービー・ブライアント

コービー・ブライアントは、コートの中ではとても恐れられていたため、ブラックマンバと呼ばれました。タランティーノ映画の『キル・ビル』を観た後に彼が自称したとも言われています。これは、コービーのプロとしての生き方の表れでもあります。コービーは「僕がクマと闘っているのを見たら、クマを応援して」とよく言っていたようです。常にベストを尽くし、他の選手よりモチベーションの高い選手でした。

そして、NBAチャンピオンリング5つ、リーグMVP1回、オリンピック金メダル2つ、NBAオールスターゲーム18回連続出場、MVP賞4回など、そのメンタルと優れた技術は記録が証明しています。さらに、コービーは彼の人生を題材にしたアカデミー短編アニメ賞も受賞しています

巨人コービーは、LAレイカーズの金と紫のユニフォームをつけ、コートの中では催眠がかけられているかのようでした。その得点力は素晴らしく、また、そのおおらかな性格でチームメートをはじめとする多くの人に好かれました。ベンチからチームを応援し、また選手には自ら水を手渡しに行っていました。

 

バスケットを愛する少年

コービー・ブライアントのバスケットの才能は生まれつきだとも言われます。父親ジョー・ブライアントもプロの選手で、バスケットへの情熱は遺伝子として受け継がれたようです。娘ジアナも生前、スポーツ界で有名になりつつあり、彼女もまたその遺伝子を継いでいたようでした。

コービーは幼少期の大半を父親が活躍していたイタリアで過ごしました。そして1991年、アメリカに戻り、コービーはバスケット界の若いスターとして目立ち始めました。フィラデルフィアの学生だった頃にすべてが始まったのです。

コービーのスキル、発達、特殊なプレイは優れており、多くの有力なバスケット選手のように大学に行く必要はありませんでした。実際、18歳の頃からすでにNBAでプレイしていました。そして、アディダス、スプライト、マテル、スポルディング、ジョルジオ・アルマーニと多額のスポンサー契約をし、21歳の時には雑誌フォーブスに載りました。

コービー・ブライアント

 

コービー・ブライアント光と影の20年のキャリア

2016年、ロサンゼルス・レイカーズに別れを告げ、彼はプロのキャリアを終えました。20年のキャリアを閉じた試合は壮大なゲームとなりました。対ユタ・ジャズ戦で、60得点を記録しています。もちろん観客は大喜びし、彼の名前を呼び続けました。夢をみせてくれた巨人ブラックマンバへのお別れの言葉だったのです。

ある時、コービーが滞在したホテルで働く19歳の女性のレイプ事件があり、論争を引き起こしたことがありましたが、それでも彼のキャリアは輝かしいものでした。この事件に関しては彼が謝罪し示談が成立したため、告訴は取り下げられています。

 

未完のプロジェクト-女性バスケの支援

悲しい事故により奪われた命は、傷や空白を残しただけでなく、個人の夢やプロジェクトまでが壊されました。コービー・ブライアントは女性バスケットボールを応援していました。男性と同じように女性のバスケットを有名にしようと支援していたのです。

特に応援していたのが、次女ジアナですジアナは父親の指導の下バスケット界で活躍していました。コービーがレイカーズにいた頃は、2人の姿がよく応援席で見かけられました。2人はバスケットへのあふれる情熱や愛着を共有していたのです。

しかしある日曜日、ジアナが午後にプレイする場所へ向かっている途中、悲しい事故が起こりました。終わっていない夢やプロジェクトを残し、命は奪われてしまいました。

スポーツ界全体が彼らの死を悼みました。しかし、ブラックマンバのレガシーは永遠に生き続けます。コービー・ブライアントは、バスケット界でもっとも輝いたスターの一人であり続けるでしょう。


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