『ノートルダムの鐘』:ディズニーで最もダークな物語

20 8月, 2020
『ノートルダムの鐘』から感じられる闇は、リアルで生々しく、独特です。おそらくそれが、90年代の子どもたちにはこの作品があまり好意的に受け入れられなかった理由なのでしょう。

『ノートルダムの鐘』(1996年)は、ディズニー映画でありながらも容易には飲み込みきれないようなダークな内容の物語です。この「ダーク」というのは『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』に見られるような不気味さとハッピーエンドが同居した世界とは異なりますし、別のそれほど有名ではないディズニー作品『コルドロン』に見られる、恐怖にまみれたダークさとも違います。

『ノートルダムの鐘』から感じられる闇は、そのようなものとは一切関係がありません。この映画はリアルで生々しく、独特です。おそらくそれが、90年代の子どもたちにはこの作品があまり好意的に受け入れられなかった理由なのでしょう。

この映画は広く知られており、批評家からの評判も良くて興行収入も申し分なく、たくさんの人々に鑑賞されました。しかしながら、当時のほとんどの子どもたちが、映画の内容を真に理解するには幼過ぎたように思います。それこそが、この作品がディズニー映画の上位10作品には入らない理由なのかもしれません。

そのため、本作品は子どもたちの間ではそれほど人気がありませんでした。むしろ映画の存在すら忘れられてしまっているとさえ言えるでしょう。ダークなプロットが潜む、分析のしがいがあるディズニー映画は他にも数多く発表されているとはいえ、『ノートルダムの鐘』は特にディズニーのステレオタイプとかけ離れています。この映画には、社会や権力に対する批判、特に教会に絡む問題への批判が詰まっています。

この映画の原作は、1831年に出版されたヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』です。映画自体は、原作に忠実でもっとダークな物語を期待していたユーゴーファンからは拒絶されました。しかし、ディズニーは多くの人の想定通り、子どもたちが上映途中で劇場から逃げ出してしまわないようにと、ダークな要素を薄めた映画を作ったのです。ただ、物語をできる限り優しいものにしようと試みたにも関わらず、それでも当時の多くの子どもたちにとっては十分に闇が深すぎる作品に仕上がりました。

この小説を元にした、もっと生々しい映画は1939年と1956年にも制作されています。大人としての観点から見れば、ディズニー版『ノートルダムの鐘』は魅力的な脚本と、人の心を捉えるような驚くべきメッセージに支えられた素晴らしいアニメ映画だと言えるでしょう。

『ノートルダムの鐘』 ディズニー ダークな物語

“人生とは、見て楽しむだけのスポーツではない。お前がもしただ観戦しているだけで何もしないのであれば、お前はただ自分の人生が自分なしで進んでいくのを見続けることになる”

-ラヴァーン、『ノートルダムの鐘』-

『ノートルダムの鐘』のキリスト教に関連する要素

ヴィクトル・ユーゴーの原作との比較で言うと、最も大きな違いがフロロー判事の描かれ方です。原作ではフロローはノートルダム大聖堂の助祭長ですが、ディズニー版では最高判事に変更されています。しかし映画が子ども向けに作られていることを考えればこのような変更がなされたのも納得です。

判事という設定にされていながらも、フロローは大聖堂との結びつきが強いキャラクターで、強い宗教的信念を抱いており、その装いも極めてキリスト教的です。この描写が、教会のイメージを少し悪く見せています。

フロローは法律界の人間なので人々から尊敬を集める公平な人物であるべきなのですが、実際にはそれとは正反対のキャラクターです。彼は無慈悲で傲慢で、普通ではない人々を軽蔑します。フロローはジプシーや自分とは異なる人全員を憎んでいるのです。しかし彼も運命のいたずらには逆らえず、彼自身も決して抱くことなどないだろうと思っていたような感情をのちに経験することになります。

フロローはジプシーの少女エスメラルダに心を奪われていきます。しかしその思いは健全なものではありません。彼にとってエスメラルダは尊くて魅惑的な、「悪魔の化身」のような存在だったのです。突如、フロローは自身の信仰を揺るがすような狂おしい欲望に駆られます。彼はエスメラルダへの欲望を神からの試験だと考え、神に背くような罪を犯すのは避けようと考えました。しかしその欲望があまりにも強迫的だったため、彼は次第に彼女を支配したい、それが叶わないならば彼女は死すべきだ、と考えるようになっていきます。

フロローの歪んだ愛は、ディズニーミュージカル史に残る不穏なシーンにつながっていきます。このシーンで歌われる曲に宗教的な要素が暗に含まれているのは冒頭から明らかです。キリスト教を思わせる聖歌隊、巨大な十字架、フロローの衣装を見ればわかりやすいでしょう。大人がこれを見れば、フロローは単なる判事ではなく教会と密接に結びついた人物であろうことに気づくことができます。

このミュージカルシーンは、このキャラクターへの理解を深めるには必要不可欠です。彼は残酷で無慈悲な判事で、何の罪もない人々に有罪を宣告したり、何かを隠蔽したりします。フロローは非常に不穏で不愉快な人物です。映画では様々な要素、事柄が描かれますが、その中でも彼がエスメラルダに対して抱く不合理で強迫的な欲求が一番恐ろしいものだと言えるでしょう。彼の敬虔で正しいというイメージの裏には、非常に危うい倫理観が隠されています。

ヴィクトル・ユーゴーの小説では、同情や思いやりよりも冷酷さが前面に押し出されています。一方、ディズニー版『ノートルダムの鐘』では、物語は甘い砂糖でコーティングされていて過激さが抑えられているので、一般大衆が消化しやすい内容になっています。ただ、フロローというキャラクターや前述のミュージカルシーンを通して、教会やそのとてつもない権力への厳しい批判という、原作で描かれている要素を垣間見ることは可能です。

『ノートルダムの鐘』 ディズニー ダークな物語

『ノートルダムの鐘』のユニークさ

社会や教会への批判に加えて、『ノートルダムの鐘』では人と人との違いや許容といった問題も扱っています。人々は、優しさとその人の外見とを結びつけて考えてはいません。映画には、残酷な判事と、ほぼ全員から醜いと思われそうな容姿でありながらも純粋で善良な心を持つキャラクターが登場します。しかし社会は彼、カジモドを、その見た目の醜さを理由に受け入れようとしません。これが、彼が「全てのことが真逆になる日」が来るまでノートルダムから脱出しようとしなかった理由です。この日には、あらゆる奇妙なものを祝うカーニバルのようなものが催されます。

“今日は挑戦してみるには良い日だ”

-カジモド、『ノートルダムの鐘』-

お祭りにやって来たカジモドの「コスチューム」は大衆を喜ばせます。もしそれが催しのためではなく、カジモドが普段からそのような装いだと知ったら、おそらく彼らはカジモドをモンスターか何かだと考えたでしょう。しかしそんな彼に唯一同情を示した人物がいました。それが、社会から阻害され、迫害されてきたジプシーの少女エスメラルダです。彼女はファイターで、フロローに対しても物怖じしないただ一人の人物であり、全ての人に対する正義と平等を求めていました。

フロローはカジモドに自身はモンスターだと思い込ませ、彼を驚くほど不安定な精神状態にさせました。そんなカジモドの唯一の友達だったのが大聖堂にいるガーゴイル(石像)たちです。エスメラルダとガーゴイルたちはカジモドの目を開かせ、現実に目を向けさせます。さらに、フロローに反旗を翻した護衛隊長フィーバスも重要な登場人物で、のちに平等を求める戦いに加わります。

ノートルダムに潜む本当のモンスターとは誰だったのでしょうか?この映画が示すのは、そのモンスター、つまり日々社会から尊敬されながら私たちの前を堂々と歩くカモフラージュされたモンスターの本質です。私たちは『ノートルダムの鐘』の名声を取り戻す必要があるでしょう。簡単に言えば、この映画は私たちの子ども時代の典型的な映画と比べれば複雑で暗い内容かもしれませんが、素晴らしい価値観の詰まった、正義や平等を目指す傑作でもあるということです。