テオドール・ライクと非医学的精神分析

2019年7月15日
テオドール・ライクのおかげで、精神分析は医学に完全に属するものではなくなりました。また、ライクはフロイトとの強い繋がりがあり、フロイトの弟子、精神的息子と呼ばれています。

テオドール・ライクは精神分析学のビフォーアフターを示し、考えを記した名著を残しました。彼が道を開いたおかげで、医者でなくても医者と同じように精神分析ができるようになったのです

彼は精神分析学の理論に大きく貢献しました。フロイトの名著である「不気味なものの世界」を熱心に掘り下げました。さらに、罰を受けることを意識せずなぜ人が法を犯すのかを説明するため、「誤った犯罪」の概念についても研究しました。

テオドール・ライクは評論や本を含め100以上の文章を書きました。中でも有名なのは、The Compulsion to Confess, The Unknown Murderer, and Masochism in Modern Manです。残念なことに、ライクが有名になったのは、彼が亡くなった後でした。

テオドール・ライク 精神分析

 

初期のテオドール・ライク

当時の多くの精神分析学者がそうであったように、テオドール・ライクもまたオーストリアのユダヤの家庭に生まれました。ライクは1888年5月12日、ウィーンで誕生しました。幼少期、父親と祖父が口論するのをよく目にしていました。一人は自由思想家、もう一人は異常なくらい宗教家だったためです。

ライクの母親は精神的に不安定でした。重度のうつ病を抱え、それは未来の精神分析学者の幼少期を怯えさせるものでした。さらに、父親はライクが18歳の時に亡くなります。そのため、家族を支えるために、ライクは早くから働かなければなりませんでした。この状況により、彼は自責と自己憐憫で表される急性的局面に立たされたのです。

「恋仲や友情は崩れるが、親子の関係は他より静かで、消えることなく、消滅しない、地球上でもっとも強い関係である」

‐テオドール・ライク‐

彼にはいくつもの制限がありましたが、文学と哲学で学位を取得します。彼の論文はギュスターヴ・フローベールの聖アントワーヌの魅惑に基づいたものでした。そして、後に彼はジークムント・フロイトと出会い、強い関係を結ぶことになるのです。

 

テオドール・ライク:フロイトの精神的息子

フロイトは、テオドール・ライクの分析者になることを拒みます。その代わり、フロイトの近しい精神分析学者カール・アブラハムを紹介しました。さらに、フロイトはライクの精神分析学にお金を出します。それだけでなく、ライクを自分の保護下にし、出費を補うために毎月の手当ても払いました。そして、ライクはすぐに精神分析学者のように働けるようになります。しかし、彼は医者ではなかったため誰を分析することも許されませんでした。

ライクはフロイトの弟子になり、彼の功績に貢献しました。その関係はあまりに近しかったため、ウィーン学団はライクを「リトル・フロイト」と冗談で呼ぶようになります。ライクはフロイトのような恰好をし、フロイトのような髭を生やし、フロイトのように話し、同じタバコまで吸いました。そのため、フロイトはテオドール・ライクの「父の願い」を認め、精神的息子と呼んだのです。

フロイト テオドール・ライク

 

非医学的精神分析学者

1925年、テオドール・ライクに対する有名な裁判が行われました。彼は医学免許をもたないため、精神分析を行うことを禁止されたのでした。これは、精神分析学に大きな論争を巻き起こします。アメリカのほとんどの精神分析学者が医者ではない人が精神分析を行うという考えに反対でしたが、ヨーロッパの精神分析学者は賛成しました。

この論争から、ジークムント・フロイトは医者でない人が精神分析を行うことはできるのかについて言及した記事を発表しました。ライクはベルリンでは精神分析を行うことができると確信し、そこに住むことにしました。しかし、ナチスの権力が強まり、1934年オランダへ、1938年アメリカへの移動を余儀なくされました。

アメリカの精神分析学者は、彼を仲間と認めることはありませんでした。しかし、これにより、テオドール・ライクは「第三の耳」理論を発展させました。この理論によると、基本的に精神分析学者は直感を働かせるのであり、それは、逆転移の軸だと言います。1969年12月31日、ライクは心臓病にのため、ニューヨークで生涯を終えました。

「人の幸せの秘訣は、自分探求ではなく、自己忘却である」

‐テオドール・ライク‐

Reik, T., & Wencelblat, S. (1943). Treinta años con Freud.